ハントンライスが人気の店キッチンすぎの実【閉店】

No.17

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ハントンライスの歴史を

継承する洋食店。

金沢市、小立野台地の中心部にある石引。江戸時代初期に金沢城の石垣を築くための戸室石を引いた道筋であったことに由来し町名がつけられたという。戦後、小立野台には金沢城内にあった金沢大学、金沢美大、そして以前は複数の短大などもあり、石引、小立野エリアは一大キャンパス街として賑やかであった。これらが相まって、小立野や石引商店街は昭和40年代までは多くの人が行きかう金沢でも有数の商店街であった。

昭和の趣漂う学生街にたたずむ洋食店。

そんな昭和の香り漂う商店街の一角に、なんとも気になるイラストが描かれた看板「キッチンすぎの実」が。店先には食品サンプルが並ぶショーケースがあり、店の一押し「ハントン」がいやおうなしに目につく。

「いらっしゃい」
「こんちわっす、絶めし調査隊、寺田っす」

カウンターの向こうでは、キッチンすぎの実の店主・杉本外志(すぎもとそとし)さん70歳が、奥さんの啓子さんと一緒に私たちを招いてくれた。

「この絵、どこの絵ですか?なんか、味のある絵ですねぇ」
「上海の(風景)やね。わたしもよう知らんかったけど、お客さんがこれ上海の絵やわ、って教えてくれたんやわね(笑)」

金沢大学の角間移転に端を発した大学生民族大移動の影響もあり、近年の石引商店街は少し静か。幾数多あった学生向けの食堂,居酒屋、バー、ライブハウス、パチンコ店も少しずつ姿を消し、商店街に残る飲食店も「すぎの実」をはじめ、数えるほどに。

それでも、いまだに大学病院に足を運ぶ人や、美大や薬学部の学生、職員の人や学生時代に通っていた常連さんが、ご主人の味を求めて昼時はにぎわう。

「昔は、薬学の生徒もたーんと来て、12時過ぎたら店に入れなくて待ってもろたころもあったんです。夜12時回っても、この辺りは人も多くて、若い女性も安心して歩いてましたし」

美大生や薬学部の学生たちにとって変わってお客さんになってくれているのが、この店名物「ハントンライス」目当ての観光客だそう。

金沢のソウルフード、ハントンライスの誕生秘話。

石川県民のソウルフードといわれる「ハントンライス」が生まれたのは約50年前とのこと。今は無き伝説の片町のベーカリーショップ「(旧)ジャーマンベーカリー」(以下、「ジャーマン」)の厨房で産声を上げた。「ジャーマン」の社長、山下昇さんが、当時も人気であったチキンライス、オムライス、カレー、ハヤシライスに加え、何か新しいメニューをと、同店のグリル部門のシェフたちと知恵を絞って考案したのが「ハントンライス」だったそうだ。
「当時近江町市場の人から魚を使った料理ができないか、という相談もあったそうで。そのころは洋食に魚を使うといった発想はあんましなかったしね」

元祖はカレイの仲間である、輸入されるオヒョウを活用するのが目的だったらしい(当時から収穫量も多く、市場関係者からお願いされていたそうだ)。

諸説あり、「ハントンライス」の名前の由来。

「ハントンライス」のハントンの語源はハプリカを使ったハンガリー料理(グラッシュなど)をヒントに考えられたメニューだったため、ハンガリーの「ハン」と、フランス語でマグロ(鮪)を指す「thonトン」を合わせて「ハントン」になったと言われているが、当時を知る人はほとんどいなく、名前の由来やハントンライスができた経緯は杉本さんでも判らないそうだ。
「テレビ局の人やら、雑誌社のひとやら、あまりにもいろいろな人から聞かれるもので、自分も20年前にいろいろ調べてみたけど、結局分からんかったわ。自分が思うに、ハンはパプリカライスのことんないかなって思っとります」

名前の由来も諸説あるが、とにかく、この新しい「洋食」は若者を中心に人気となり、「ジャーマン」が誇る人気メニューにまで成長した。その後、コックたちも各々に独立。自分の店のメニューに「ハントンライス」を加えていったことから、金沢市内の洋食店に広まっていった。発祥となった片町の「(旧)ジャーマンベーカリー」は閉店となったものの、金沢の特徴的な料理として現在も多くの人々に愛されている。

金沢における「ハントンライス」は、トマトケチャップで味付けされたバターライスに薄焼き卵を載せ,その上にカリッと揚げた魚や海老フライ等をトッピングするいたって簡単なメニュー。しかし、簡単な料理ゆえにトッピングする材料、ソース,バターライスの味付けなどにシェフ達の苦心が伺える。

お店によってビミョーに違うハントンライス。

すぎの実の「ハントン」は、タルタルソースにパプリカ粉などを合わせた特製のサウザンドソースをかけている。こだわりのバターとケチャップを使っており、これらの素材はオープン当時から変えていないのだとか。初代の「ハントンライス」を提供する片町の「ジャーマン」に敬意を表し、「同じもの(ソース)での提供はダメ」だと暗黙の了解もあり、その後独立していったシェフ達は思い思いのソースの「ハントンライス」を作っていったそう。

「店によって微妙に違うんですね」
「卵も、薄焼き卵も半熟系とかもあります。私の場合は、バターの風味を活かそうとおもったら、こんながになりました」

ハントンライスの歴史は、「すぎの実」の歴史、杉本さんの歴史。

「そもそも、マスターが料理の道に入ったきっかけはなんだったんですか」
「高校でて、お菓子を作る会社に勤めとったんです。元々洋食をやりたくてというわけやないんですわ。食べ物のことが好きで、飲食全般に興味があったし。でも、会社とか、組織とか、先輩とか。5年いても、こんなものかと」
「で、コックさんに」

「自分で(自由に)出来ることはないかと思って、会社勤めもいいけど、スパッと辞めました」

自身の将来を考えた杉本さんは、会社を退社、20歳になった昭和45年に「ジャーマン」へ入社、料理人の世界へ。
「3年くらいは皿洗いなど下積みの仕事。それからチキンライスやカレーなどご飯もの担当することになりました。当時の「ジャーマン」は、日曜には1000人以上の人が来るほどの人気店て、朝8時に厨房に入って、4台の窯を順々に焚いて、ご飯も食べずに夜までひったすら料理をつくっとりました」

その後、「ジャーマン」から独立した先輩についていき、そこで5年修業して、そこから独立、昭和53年に自分の店を持つこととなる。

「あとは、昔、向かいにあったレストランに負けんように、頑張ったんやわね」

商店街にあった数多くの同業の飲食店に負けじと頑張ったそうだ。

うどんやどんぶりもの、なんでもありの創業期の「すぎの実」。

オープン時には、丼ものやうどんなども提供していたそうで、冷製パスタやすき焼きなんかもあり、和洋折衷なんでもありだったそうだが、杉本さん曰く、「めんどくさくなった」。学生が多く来る店で、4人来ても頼むメニューは全て別々。「かぶったー」なんて会話もあり、厨房は戦争状態。

「とてもじゃないけど回らなくなって」
そこからメニューを選別して現在のメニュー構成に至った。

まだまだある「すぎの実」の人気メニュー。

「ハントンライス」に並ぶもう一つの人気メニューが「ボンライス」。オープンと同時期に作ったオリジナルメニューで、フランス語でおいしいを意味する「ボン」から名前をとったとのこと。ちなみに、某レトルトのカレーもこの「ボン」からネーミングしている。改良を重ね、完成したメニューは、今では「ハントンライス」と並ぶ看板メニューの一つに。

「今のボンライスは2代目です。初代はライスバター、ミートソースを使っていましたが、自分でいうのもなんだけど、味は濃いめで、しつこかった」

「すぎの実」の店名由来と歴代の看板の変遷を探る。

「マスターのイラストも微妙に違いますね」
「ガラスに貼ってあるがとかアーケードのは3代目なんやわ」

店内外には、杉本さんの似顔絵がバリエーション豊富に描かれている。オープン時に看板を作ってくれた友人が改装するごとに描いてくれるそうで、年月と共にイラストの杉本さんのしわも増えている。以前はベニヤ板1枚の大きな看板があったそうで、それが初代の杉本さんのイラスト。近隣の小学生たちがそのイラストをみて、店に入り「そっくりやー」なんて冷やかされたらしい。

「わざわざ来てくれるのがうれしい」。

昔はアルバイトもいたそうだが、今は夫婦二人で客を迎える。周辺の学生が減りつつあるが、近所の家族連れや、学生時代から通っていた常連客が訪れる。そんなお客さんのため笑顔で料理を作り続けるお二人。

「やっぱり(自分の作る料理を求めて)来てくれて、食べて喜んでくれる人がいるのがうれしい」

そんな常連さんのために、この味を守ってくれる人がいたら、屋号もレシピも譲っても構わないという。

「ハントンライス」の黎明期から現在を見続け、自身も料理人としてその味を守り続けてきたてきた杉本さん。趣味の写真は現在も続いており、水平線に浮かぶ太陽の写真を一枚撮るのに4時間は待つ辛抱強さを持つ。しわも増えた笑顔の奥には、「ハントンライス」を守っていきたいという秘めた情熱と辛抱強さが伺えるのである。

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